昭和45年3月に出発したわが社の仕事は、すべて、電電公社(現NTT)が発注される電話施設の工事で、私たちが退社した広島建設工業(株)からの下請け受注であった。

実は、これは、私達7人が退職届けを提出した時の広島建設工業(株)の常務との約束事でもあったのだ。

常務から7人が退職することを容認する代わりにそれまでの5年間の技術を生かし、広島建設工業(株)の下請けとして働いてもらいたいとの要請だったということだ。

そして、それは、計画性や社会性もなく一般的な知識もない若者の起業としては“渡りに船”のありがたい成行きであったことは間違いなかった。



しかし、今、思う。・・・・・実は、このことが、必然的にメリット、デメリットが極端に表れる環境下での会社経営となることを余儀なくされることとなったのではないか・・・・と。

それは、業界(電電ファミリーと呼ばれた)そのものが温室風であることに加えて、その下請け企業である私たちは、何も考えず、何の工夫もせず、ただ、ひたすら親会社の要請に答えることだけが成功の道だと信じて疑わなかったことに繋がった。

これは、正邪の問題ではないが、少なくとも、本来の産業界における企業やあるいは企業家としての王道からは程遠い環境に無意識のうちに身を投じていたと言える。

そして、“甘え”の通用するメリットが、そのまま、足枷になるデメリットだということにも、私は、この後の長期間、気づかなかった・・・・・・。



ともあれ、当時の電話工事の現実は、全国的に、文字通り“猫の手も借りたい”状況で、工事現場は中国地方一円にわたり、常に出張がともなった。

私たちの基地としての会社は、三原市内に私が借りて家族と住んでいた古民家を住所地として登記した。

要は、会社兼私の自宅である。 三原から通える範囲の現場の者や出張から帰った者は、ほとんど毎日、私の古民家の会社で食事をし、雑魚寝したものだ。



ところで、この頃、私は、「眞田の会社は、今に空中分解するぞ」とか、「何か月くらい持つのかな?」といった風評に悩まされていた。このことには、若干23歳の私がいくら冷静を装ったり、空元気を出しても、心の中では暴風雨が吹き荒れていた。

しかし、その反面、反骨精神のようなものもメラメラと燃え盛っていた。この「なにくそ!魂」が、当時の唯一の精神安定剤となっていた。そして、何よりも無我夢中で仕事をこなすことが嫌な噂を忘れさせてくれた。

そうして、もう一つ、このようなモヤモヤした日々の中で、キラ星のごとく、新しく、楽しい目標が私達に飛び込んできた。



誰が言い出したのか、今でも特定できないが、「会社ができたのだから、土地を買って事務所というものを建てようよ」と7人の内、誰かが言った。

半分本気、半分冗談のようなその話は満場一致で決まり、当時の知人からの紹介で福山市神村町の田んぼ(100坪)に照準を合わせて交渉に入った。

総額300万円の土地で、手付金は50万円で農地を宅地に転用手続きをするため半年間の期間が必要と言うことで、半年後に250万円を支払うというのが条件となった。

その時、50万円はぎりぎり手元にあった。残りの、あと250万円は半年後までに稼ぎ出せば良いのである。

ちなみに、当時の私たちがサラリーマンをしていれば、月給は3万円程度の時代であった。



いよいよ、目的を達成すべく7人の“銭ゲバ作戦”が始まった。

始業は早朝5時、終業は夜11時。みんなに支給するお金は必要最小限(散髪代、食事代など)のみとし、給料としては支給しない。休日は疲労がピークに達した時のみ・・・・・・といったような具合で、面白半分の遊びが本気になったような感じもあった。

その頃、総勢9人(創業時より二人の社員が増えていた)の働き手で、売り上げは120~140万円くらいであったが、役員7人を除いた社員2人の人件費、それにガソリン代や工事に必要な経費を差し引いた後は全部を貯金とした。

こうして、私達は、期せずして、当時としては、“巨大な夢”に向かって驀進することとなったわけである。



さて、3か月が経過した頃である。今、考えれば、もともと、若さだけに頼った無理な計画である。
お金だけは、予定以上に蓄積できてはいたが思わぬ落とし穴が待っていた。

“好事魔多し”とはこのことか!

仕事中に、二人の仲間が倒れたのである。マンホールの中で、朝5時から夜11時まで20時間近く座ったままのケーブルの接続作業を数か月間続けた結果である。

一人は肺炎、もう一人は椎間板ヘルニアで、2人とも入院を要するという医師の診断であった。

しかし、会社は、社会保険類に加入していない、健康保険が無いありさまである。

2人の入院費用の支出を予想すると、せっかくそれまでに貯めてきたお金も無くなり、土地の購入が危うくなるのだ。そのうえ、2人が欠けた後半の売り上げは大幅減ともなる。

止む無く、二人には私の家から通院治療をしてもらうこととした。

法外な労働時間であったため労災事故の申請もはばかられ、彼らの家族に通知することも恥ずかしくてできなかった。



かくして、体を壊した二人は数週間を会社兼我が家で辛抱の生活を送ったのであるが、随分と辛い日々であっただろうと今更ながら察するに余りある。

また、この内、一人の友は故人となっているだけになおさらである。

このことをきっかけにわが社が社会保険に加入したのは言うまでもないことだった。



こうして、半年後・・・・紆余曲折を経て、特に、長時間労働、給料も支払わず、犠牲者を2人も出した代償は出た!

その方法としては邪道、無茶、無謀の数々であったが、結果として、会社創立後の初めての大きな喜びであり成果を目の当たりにすることができたのだ。

さらに、よく考えれば、何と、私達は、独立して1年も経たないうちに土地、建物まで手にすることができたのだ!



約束の半年後、晴れて、社有地を買い、それから少し遅れたが中古のプレハブながら二階建ての社屋も建てることができ、応接セットや予定を書き込む黒板も買うことができた。

何もかもが、新鮮、そのものであり、まばゆいばかりであった。

私達が、真の意味で、生まれて初めて“我慢”や“辛抱”を知った半年間でもあったと思う。

また、私は、この時、この“我慢”や“辛抱”があれば、この会社は絶対に大きく発展するという確信が持てた。噂のような誹謗中傷に惑わされた自分が恥ずかしかったものである。



今、あれから半世紀がやってくるが、私は、土地が私たちの所有物になったあの時、まだ雑草の生い茂った田んぼの中で、病気も癒えた2人を加えて、みんなでプロレスごっこに興じたことが忘れられないでいる。

あの充実感こそ人生における果実、そのものであり、私達は、紛れもなく世界一の幸せ者であったからだ。
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